前回私が書いた記事に対してコメントをいただいた皆様に、改めて感謝したいと思います。

ありがとうございました!

同じ教室に通う友人ともいろいろ話しをしてみて、今後、太極拳に対する私の取り組み方、方向性がはっきりしました。


ある出来事があって、特定の流派の太極拳をしているというタイトルをやめて、単に「太極拳」をしていますというタイトルに変えました。



目的を同じくする人間が集団となったとき、序列ができるのは必然かもしれません。

経験を積み、他よりも秀で、人々から認められた者が頂点に立ち、伝承するための組織をまとめるためには欠かせない存在といえるのでしょうか。

その歴史と規模が大きければ大きいほどその頂点の権力は大きくなるのでしょうか?


その頂点を下から眺めたとき、尊敬、畏敬、憧憬…あとは何かなぁ… まぁ、そういった感情を抱くものだとは思いますが、それを超越してしまうと…


☆老師は神様みたいな人だから、畏れ入ってみんなが崇めているのだ。

☆なかなかお目通りも叶わない方なのだ。

☆特別にお会いできるなんて、まったくもってありがたく畏れ多いこと。

☆その老師に認めていただくなんて、光栄の極みである。


これっていったい…

何か違うんじゃないかなと、私はいや~な気分になったのです。

まるで、宗教団体の教祖様扱いなのです。

そして恐らく、当のご本人はそのことに気づいてさえいないのです。

頂点の老師をまるで教祖様のように崇めるなんてことは私にはできません。

優さんもおっしゃるとおり、

大切なのは太極拳の核心である教えそのもの「原理原則」であるはずです。


その大切な原理原則の伝承者である老師に感謝をし、敬意を表することと、伝承者そのものを畏れ崇めることとはまったく別だと思います。


確かに太極拳に出会ったことによって、丈夫になったとか、精神的に強くなったとか、その効用は計り知れませんが、あまりに思い入れが強すぎで、「これこそが絶対である!」などという思い込みをしてしまう「落とし穴」を見てしまった気がします。


これこそが最高。他のことはまったく見たくもない。そんな「盲信」状態にあるとき、他は受け入れられません。他と差別化することによって、自分の信じるものがより高められるのでしょう。


大切なものを取り違える恐ろしさ、愚かさを見てしまいました。